福山城 
     Fukuyama-jo Castle
         5.April in 2023
                 天空仙人のさくらのかんづめ

福山城  写真
「福山城」

福山城 桜 写真
「福山城」

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「福山城」

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福山城

Fukuyama-jo Castle

広島県福山市丸之内1丁目


福山城

このまちの歴史を語り 文化を発信する福山城

福山城の歴史は、そのまま福山の歩みと重なってくる。 1619年、徳川家康の従弟・水野勝成が初代藩主となった。 勝成は築城に取り掛かり、3年の歳月をかけ完成させた。 5層6階の天守と京都伏見城から移築した櫓や御殿などが建ち並ぶ姿は壮観であった。 勝成は、この地を福山と名付け、上水道の設置や干拓など城下町の整備を進めた。 い草や綿花栽培の奨励は、今の特産品の“びんご畳表や備後絣"につながっている。 また、歴代藩主によって奨励されたこともあり歌謡・音曲などが盛んに行われ、福山の文化の礎が築かれた。 福山城の天守は1945年の空襲により焼失したが、1966年に市民の寄附などにより復元を果した。 今の福山城周辺には公園や博物館、美術館などが集まり、歴史と文化の発信地として親しまれている。


福山城

福山城は、山を造成し本丸・二之丸・三之丸の三段の石垣で構成された平山城である。 雛壇状に三段の石垣で構成された平山城は、江戸時代の軍学では「一二三段」と呼ばれ、最も望ましい城の形態とされていた。 通常、外様の大城郭でも三之丸は石垣で造らず、土塁のままの場合が多いが、福山城は北側を除く三之丸も石垣で築いた城であった。 石垣は、瀬戸内地域で産出する花崗岩を主とする石材が用いられ、その表面を「割石」加工し、ハツリを施して平坦に調整している。 積み方は、「打込接」の「布積」と「乱積」技法を併用して構築されており、隅は完成度の高い「算木積」である。 1873年(明治6年)の廃城後の民有地化や公園化、1945年(昭和20年)の空襲による被災等があり改変が著しい部分も存在するが、 天守台・本丸・二之丸を中心に、ほぼ築城当時の石垣が現存している。 福山城は、天守や櫓門、内堀や外堀等が南側からの眺望を重視した構えとなっており、築城当時の石垣のうち特に天守台や伏見櫓 筋鉄御門のある虎口周辺、二之丸南面の石垣は丁寧な加工による構築が行われている。


筋鉄御門

筋鉄御門は本丸へ入る正門である。 門柱には欅の太い柱を用い、脇戸を設け、門扉には十数条の筋鉄が打ちつけられている。 外観は伏見櫓と同様に柱形や長押を漆喰で塗り出し、万杖は無く、窓は素木である。 狭間は設けていないが、窓の格子を三角形にすることで射撃の効率を図っている。 屋根瓦には水野家の家紋である「立ち沢瀉」が使用されている。 内部は門の上部を一段高くとり床張りとし、その左右は土間となる。 1873年(明治6年)の廃城令での取り壊しを免れ、1933年(昭和8年)に伏見櫓と御湯殿とともに旧国宝に指定された。 伏見櫓や鐘櫓とともに1945年(昭和20年)8月8日の福山空襲を免れ、国の重要文化財となり1951年(昭和26年)から解体修理が行われた。 その際に、多くの材が交換されてはいるが、当初材を多く残しており、これらは別の建物から再利用された転用材が含まれることが分かった。 転用の柱は、西面南側窓に外部からも確認できる。

案内板より

※ 2023年の東京のソメイヨシノの開花日は、3月14日、満開日は3月22日でした。


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